国際通貨システムは第一次世界大戦前まではポンドが国際的な基軸通貨であったが、両大戦間にポンドからドルに移り、第二次世界大戦後にはドルが基軸通貨になった。
1944年7月アメリカのニューハンプシャー州ブレトンウッズに連合国側の44カ国代表が参加して開かれた国際会議は、戦後の世界経済運営の枠組作りに成功し、為替の安定と無差別多角的な貿易取引を通じて世界経済を秩序ある成長軌道に復帰させることになった。
この会議で設立された国際通貨基金(IMF)の協定により協定締約国は金もしくはドルを基準として固定平価を設定し平価の上下1%以内に相場を維持する義務を課した。
これはIMF(国際通貨基金)が監視役となり、金との結びつきのある米ドルが国際通貨とし。この制度は、@各国通貨は米ドルとの交換レートを決定(IMF平価)、A為替相場がIMF平価の前後1%以内で変動するよう、各国通貨当局が為替相場に介入、B国際収支等に大きな不均衡が発生した場合、IMF平価は変更可能、C各国の政府、中央銀行は米政府に対し、米ドルを1オンス=35ドルで金に交換することを請求可能、という内容である。米ドルは、金の裏打ちを持つことで国際通貨としての信認を得ることになり、各国通貨も、間接的に金と結びつくことで信認を高めることができた。
こうしてできあがったブレトンウッズ体制は最初の20年は期待通りに機能したが1960年代になると、基軸通貨ドルの通過基盤が弱体化し制度全体が不安定になっていった。
1960年10月ロンドンの金市場で金1オンス41.6ドルを記録、米国の景気拡大政策によるドル過剰問題の深刻化が予想された。ドイツ、オランダの為替平価を切り上げ、金プール制の創出、外国通貨当局の金交換自粛でしのいだ。
金プール制は投機を目的とする金の売買によって、1オンス35ドルの公定金価格が大きく崩れ、国際通貨体制が動揺するのを防ぐことを目的としたもので、参加国はアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、スイスの8カ国。発足当初の全拠出総額は、2億7000万ドルで、うち1億3500万ドルをアメリカが分担した。この拠出金をプールとして、イングランド銀行を代理人として、ロンドン金市場の金価格が1オンス35ドルの上下20セント以上に動いた場合に市場に介入することにし、当初は成果を上げていた。
しかし1968年3月ポンド危機を契機にドル切り下げに波及するとの思惑が生じてゴールドラッシュが起こり金プール制が崩壊、金の2重価格制などの制度を取り入れるが1971年8月ニクソン大統領によって金交換が停止された。
これが「ニクソンショック」で、ドル防衛のために米ドルと金,その他の資産との交換を一時停止すると発表された。 それに伴って欧州の主要為替市場は1週間閉鎖され,市場再開後も為替相場は混乱した。日本は当初、円相場の上昇を防ぐべく米ドルの買い支えを行ったが、8月28日には介入を停止し8月末にはフランスを除く主要国はすべて固定相場制から離脱した。
その後1971年12月固定相場制を回復するためにワシントンのスミソニアン博物館で各国は金との交換性を持たないドルに対して新たに基準相場を設定しその上下2.25%の範囲内に相場を維持することが約束された。しかしドルへの信頼は回復せず、1973年2月から3月にかけて主要通貨は変動相場制に移行した。
1973年から76年にかけて石油危機が起こりドルは緩やかに上昇した。その後79年にかけて景気回復のための拡張政策によりドルは緩やかに下落した。
1979年より85年にかけてはドルが急上昇したがニューヨークのプラザホテルで開催された、G5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)におけるプラザ合意によって国際協調が進められ88年には80年水準までドルが下落した。それ以降はルーブル合意やアメリカの双子の赤字(莫大な貿易赤字(経常赤字)と財政赤字が並存している状態)が持続していることもあり緩やかに下落することになった。
90年代に入り欧州圏がユーロを導入したがまだまだドルは基軸通貨として活躍していきそうだ。
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